DAYDREAM

つまらないことを、つらつらと。

命を持つ当事者のための、命の授業

テレビで見た「命の授業」をやってる人に激しく怒りを覚える。
 

(いきさつ・テレビの内容)
この方は、娘さんが3歳でがんに侵され、闘病の末6歳で亡くしたそうだ。
それから「命を大切に」ということを伝えるためにNPOを設立して活動しているとのこと。

 

中学で生徒に向かって講演をしている時に「いじめで自殺、などということが報じられるけれども、自分は死んでもいい存在なんだと思うことは間違っている。死んだらお父さんお母さんがどう思うか考えて欲しい」と話していた。

 

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子供に死なれた親は確かに「命を大事にしてくれ、親より先に死んではいけない」と思うのはわかる。
彼は子供を小児がんで亡くしている。6歳だそうだ。悲惨だとは思う。


でも、

 

その子供が、小児がんのまま、辛い治療を続けながら、良くなるわけでもなくただ「死を免れるためだけ」に生かされてたら、子供の気持ちはどうなるんだ?

 

そして、苦しみの末に自殺を考える人に「自分は死んでもいいなんて間違い」と言い切る。
なぜならば「周囲が悲しむから」。

 

もう、ね。
個人の命は、周囲のためにあるものではないんだよ。
個人が死ぬ運命なのに周囲のために生きながらえるのは、その個人の幸せか?
生かしておくなら「治して」やってよ。

 

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自殺を考える人のほとんどは、うつ状態を経て自殺に至る。

 

ひどいストレスを受けると人はうつ状態になる。
ストレスにはいろんなものがあるが、古く原始時代やもっと昔のお猿さん時代、脳の働きが作られていく段階において、「獲物が捕れなくて飢えている」「怪我をしている」などのストレスで「動かないほうがいい」状況の時に、無駄に動かないためにそういう風に脳が動いたんじゃないかな、と思う。
それがさらにひどくなれば、群れで行動するのに支障をきたす。そこで「自分は役に立たないんだ、みんなと一緒にいてはいけないんだ」と脳汁が働くようにできてるんじゃないか、だから人は「自分なんかいなくなったほうがいい」と

 

自然に考えるようにできている

 

のではないか、と思う。
うつ状態、さらにはうつ病鬱状態が高じるとなる)になると人は「死にたくなる」ものなのだ。

 

治せないのならばその人のクオリティ・オブ・ライフを考えるべきであって、「親を泣かせるな」などという脅迫をもって縛るものではないと思う。

 

気軽に「自殺なんかよくない」と言うのは私は大反対だ。
「私は、あなたが死んだら悲しい」はOKだけど、「死にたいと思うあなたは間違っている」は大いに間違っていると思う。

 

当事者目線でないからそういうことが言えるんだと思う。
6歳で亡くなった娘さんには多分「抗がん剤辛いよ」とか「治る見込みがないのに、もう手術ばかりなのは嫌だよ」とは言えなかった(し、考えられるほど育ってもいなかったし、親が全てだったんで期待に応えようとしていた)と思う。

 

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親より先に死ぬな、などと言うけれども、親にだって死なれたくはないものだ。

 

ウチの父は、治しようがなく進行が早い難病で他界した。ALSという病気だ。脳と筋肉をつなぐ神経細胞がなぜか侵されていき、体が動かなくなる。やがて筋肉が衰えていく。
呼吸機能に障害が出るために、放っておけば死んでしまうが、人工呼吸器をつければ生き長らえる。ただし、呼吸はできても他の部位は動かなくなっていくので、一番困るのは「脳は動いているのに意思を外に出せない」という怖い状態になることだ。
運動系の神経細胞は死ぬが、脳とか、臓器を動かす自律神経などはこの病気では侵されない。

 

父は病気発覚後すぐに「人工呼吸器をつけないで早く死んでしまうか、人工呼吸器をつけて生き長らえるか。ただし後者だと精神的に辛い日々が待っているかもしれない」という選択を強いられた。

 

結果父は前者を選択し、選択とほぼ同時に呼吸器が急速に衰え他界したが、その選択は家族全員が納得した、と思う。
無理な延命で苦しむのなら、自然に死にたい。
家族も無理はさせたくなかった。

 

「家族のために死なないで!」というのならば、父に「彼が不快にならないと約束できる介護」と「彼が孤独にならないようなしっかりした意思疎通の方法」を確保しなければならない。それは、現代医学では総力を尽くしてもとてもおぼつかない。
そもそもは「治す」が約束できなくては無理を強いることは(父自身ではないという意味での)他人にはできないと思う。

 

なぜ、自分のために生きるのが不可能な状況で、他人のために生きなくてはならないのか。

 

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小児がんの子供が、がんは治らないしずっと手術と抗がん剤で生き長らえていたとして、その子が学校にも行けず、友達もできず、苦痛と闘うだけの日々で治る見込みはない…という状況なら、無理をさせる意味はあるのだろうか?

 

抑うつ状態で事態の改善も見込めずうつ病に移行して、何年も何十年も薬を飲んで動けなくて生活保護を受けてなんとか生活しているおじさんとかが「自分は生きている意味がない、死にたい」と言ったら、それは否定されるものなのだろうか?

 

当事者目線で語れない「命の授業」なんて、害悪でしかない。
もしも冒頭の人が講義を行う中学の生徒の中に、いじめられていじめられて自尊心をとことん叩き潰されて、でも学校からも逃げられなくて死にたいと思っていたとして…その死にたいという「自分の意思」まで潰されたら生徒は自分で考えることすら否定されることになる。

 

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当事者目線に立てば「自殺しないで済む方法」を探ることになると思うのだが「自殺しようと思うことは間違っています(キリッ)」ってのはもう自己満でしかないと思うのだ。

 

ただ、うつ病に「死にたい」と思わされている人に

 

「それはあなたの意思ではない。病気がそう思わせているんだ、あなたの意思で死ねるようになるまでは自殺は延期して、治らないかもう一度あがいてみようよ。もし治るのなら、死ぬのはもったいないよ」

 

と伝えてあげられるのであれば、「(少なくとも感情の爆発に任せて)死ぬのはよくない」と言うことはできる。
楽になるのならば、誰も自分から死んでしまいたいとは考えない(強い信念があるとかの場合を除いて)。

 

(参考記事)
https://welq.jp/547
(「重荷や空虚を手放しましょう!」の記事まで。それ以降は後付けのようなので通り一遍の話しか書いていませんので、興味がある人以外はそこまで読めば十分です)

 

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はー、腹が立ったので書きなぐってしまった。
でも、間違いは言っていないと思う。後悔も反省もしていない。
テレビに向かって猛烈に悪態をつきたくなるくらいには腹が立った。あの人と会うことがあったら、私は元重症うつ病バイバー、ALS患者の娘として闘うのだと思う。

 

なんで自分のためじゃなく他人のために、しかも根性ではどうにもならないことについて「頑張れ」だの「家族や友達が悲しむから死ぬな」だの言われなきゃならんのだ。

 

大事な人が死んでしまったとして、残された人間はその人の選択を(本当に間違っている場合を除いて)尊重しつつ、「今生きている私はどうしたらいいか」を考えること…自分本位、「自分」がどう考え生きるのか、立て直していくのかが大事なのではないだろうか。