DAYDREAM

つまらないことを、つらつらと。

「厄介な子供」という不幸

私も昔、学校になじめない子供だった。


いじめられて傷ついていたから、いつも学級集団から少し離れているような子供だった。
時々辛くなるとお腹痛くなったり頭痛くなったりした。仮病ではない。多分精神的なものだと思う。


「うつは甘え」とか言い出すような知識と常識の欠落した輩ならば「仮病」と言われてもあーあーそうですかってなもんだけど、あの当時はもっとひどかった。30〜35年も前の話だし、精神科領域の研究も進んでなければ知識も普及していないので、私もまた「ひどく厄介な子供」として扱われていた。

 

私は苦痛を解消したくて先生に何度も訴えたのですが、なにぶんこちらが社会性がない子供だったから軒並み「お前が悪い」扱いだった。
社会に馴染めない子供に社会性を学ばせること、それが集団教育を行う学校の役目ではないか?
話を聞きだすまでもなく、一人ぼっちでも泣いていても、時に世をはかなんでベランダから飛び降りそうになっててもスルー。


あの当時、もし自殺でもしても「遊んでて転落」扱いで終わってただろう。そんな1980年代。

 

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先生の言い分はこうだろう。


「私は学習指導要領に基づく授業スケジュールをこなさなくちゃいけない。他の生徒の話も聞かなくてはならない。事務もやらなければならないし授業の予習をして明日に備えねばならない。部活動の顧問とかボランティア活動を強要されてるし、子供の親が時々面倒なことを言ってくる。一人のおかしな子供に構っていられるか」

 

時代は進んで子供は減っても、基本あまり変わってないのだな、と思う。
私なんて、若くして親になった人が孫の小学校入学を目前に控えているくらいの年齢なのに。

 

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そうだとしたら、もう心身に問題を抱えた子供は専用のクラスなり学校なりで療養がてら今後について考える必要が出てこないか?
そういうのができる教師、養護教諭スクールカウンセラーがいる&精神保健福祉士や子育て専門員に相談ルートがあるような。

 

東京にある某区教育委員会には、体の弱い子供のために、区内ではない静かな町に建てた療養学校がある。
喘息の子供や、いじめられて精神的に不安定になった子供、太りすぎてしまった子供などが、全寮制で心身を養いながら勉強している(はず。少なくとも20年前はそうだった)。

 

教師だってめちゃくちゃに仕事を盛られているんだろうから、上野千鶴子が言うほど話は簡単ではないと思う。
今時教師は聖職ではない。教師はサラリーマンであり、また一人分のキャパシティしか持たない普通の人間である。ケアが必要な子供のことを考えていると、仕事量がオーバーしてしまうのだろう。

 

「手のかかる子供」は学校から離してあげて、休ませてあげて、話を聞いてあげて、大人になった時に傷を抱えたまま社会に出すのはやめてあげていただきたい。
いじめ体験が社会不安障害などを引き起こし、世の中にアタッチできなくて苦しむ大人になる…これは人工の病だ。

togetter.com

ゲットされる路地

「pokemon GO」はなぜ批判されるのかというと、大きな理由の1つに、

 

「今まで一部の人々による独占(に近い)状態だった場所に、予想してない人々が来るようになっちゃった」

 

という、ある種の既得権益の破壊みたいなものがあろうかと思う。
ちょっと前の時代なら当たり前にあった「目的外使用」をことごとく排除しようとしてる。
目的に沿った事だけされてるなら管理が楽だからね、たぶんそういうことかと思う。

そうやって管理が行き届いていると、全体的に安全にはなるんだけど、ゆとりの部分が本当に無くなってしまい、文化とかの受け皿はまぁ、少なくなるよね。

 

(もちろんこれだけじゃないんだけど)

 

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例えば、道路は「歩行者優先」とか言いつつ、実際は車の都合で動いている。
「車に轢かれないように気をつけて歩く歩行者」と「車」の通る場所が現代社会の「道路」。
我々が子供の頃くらいは、路地には「ボール遊びをしている子供」とか「井戸端会議の奥様の集団」とかがいた。でも、今それをやると「迷惑」と言われる。
公共の場なのでいろんな人がいるはずだった場所は、目的をかなり絞られて存在している。道路って基本「通行しかしてはいけない場所」なんだよね。

 

井戸端会議の奥様達は今やスマホでバーチャル会議ができるようになった。その代わり、近所付き合いが希薄になった。
私は横浜から離れることがほぼないけど、その土地にずっと住む人ではない、気軽に引っ越しをするタイプの人だから、基本ココでは他所者。隣が誰だかもわからない。

 

ボールを投げたい子供は…どこへ行ったのだろう?公園でも禁止され、校庭はそこの学校の子しか遊べない。
隣の学校の子とはどうやって遊んでるんだろう?学習塾とかで交流してんのかな。

 

こういうことを言い出すと「昭和時代の老害」って言われちゃうのかな。

 

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ポケモンを捕まえるべくウロウロする人達は、「自分の使い方こそここの目的」という既得権益を持った人々には迷惑だと思われるはず。
何してるのかわからないから。自分達の主張を無視する存在だから。今までの管理方法では管理できなくなる恐れが高いから。

 

東尋坊では自殺予防に励む方の人達にとっては「思わぬありがたい存在」になったみたいだけど、多分、自殺をしたい人から見たらすっごく迷惑だと思うよ、pokemon。

 

temita.jp

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メメント・モリ、的な。

遺品整理は昨年父のをやったけど、大変なのよ…遺された者の想いとかあってね。とても重くて疲れる作業だったな。
あと、物理的に重たいのは、なんか重要そうなメモなんだけど何書いてあるんだかさっぱりわからない走り書きとか、友達にダビングさせてもらった昭和歌謡のMP3データ集CDとか(母は歌謡曲聴かない)。

 

すんなり決まったのはパソコン。妹は自営業なんでもっと良いパソコン使ってる。母は多分一生パソコンなんか弄らないしだいたい何ができるものだか分かってなさそうな68歳(まだそんなに年齢いってないのにね…)。
私がもらって使っております。

 

ゴルフが大好きだった父の棺桶には、グローブと木製のティーを入れました。
同席した親類みんな納得で「あっちでもゴルフやるよね…きっとすぐ仲間見つかるよ」って言いながら見送りました。

 

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私が死んだら何入れてもらおうかな…特にこれってものないんだよな…趣味好みが明確な人はだいたい思い浮かべてもらえて得だと思います。

 

私はきっとそういうのがないから(天然石は好きだけど、火葬場に持って行ったら燃えないものは怒られちゃう。むしろ焼けたら骨壷の中へ入れとくれ)…

 

着たことないような、白いレースとフリルの綿のドレスなんか着せてもらって、乙女チックに送ってもらうのアリかも。
子供の頃から可愛らしい服を着たことなかった。
それに、病院の売店で売ってる浴衣じゃ趣がなぁ…。

 

生花は菊とか百合じゃなくて、納棺用だけでも赤とか青とか黄色とかピンクとかの季節の花が良いなぁ。
生前花束なんか数えるほどしかもらったことがないんだもの。最期くらい花で送ってもらえたら嬉しいな。

 

それ以外、お通夜もお葬式も要らなくてテキトーにお別れを告げたら火葬場直行でいいのよね。

…死んだ時用の一式揃えておいて、いざという時に夫に託しておこうかな。

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なぜかコミュニティカフェについて熱く語るの会

コミュニティカフェ」という言葉を見てしまったので、前にちょっと携わったことがありとても不信感を覚えた身として、

 

コミュニティカフェ、これができなければ辞めてくれ」

 

について書いてみます。
あら、私のくせに攻撃的。

 

ちなみに、コミュニティカフェとは、地域の人たちの溜まり場的役割や情報発信基地としての役割、井戸端会議の井戸端みたいな機能を果たす場所のことで、だいたいは簡単なコーヒーや紅茶や焼き菓子くらいは座っていただける感じの店になってます。
…それじゃない、という人もいるかもしれないけど、私はコミュニティカフェのキモは地域の色んな人達にとっての溜まり場機能だと信じて疑いません。

 

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1)利益を上げること

 

事業継続性は、コンセプトよりも下手をすると大事です。
コンセプトを大事にするとボランタリーなことしかできなくなるようなコミュニティカフェは、明日潰れるかもしれないので信用ができません。
ぶっちゃけ、街のド○ールの店長さんが常連に微笑みかけてくれる方が、利用者としてはよほどコミュニティのあるカフェとなります。

 

大事なことなので二度言います。「事業継続性」は「コンセプト」よりも大事です!なぜなら、潰れてしまってはコンセプトもクソもないから。
それに、一度居ついてくれた地域のお客さんを裏切ってはいけないから。

 

もう1つ突っ込むと、コンセプトとは何か?ということ。
「街の溜まり場になること、繋がりのない街の人々に交流をもたらすこと」がそもそもコミュニティカフェのコンセプトであって良いはず。
そこに「自然食の良さを啓蒙したい」「働くお母さんの情報交換に使うような場にしたい」「商店街振興のために使いたい」などなどというのは「上乗せ部分=それだけがメインコンセプトではない」、というのが重要です。

 

っていうか、ママの交流場が欲しければ「ママカフェ」とか作ってママと赤ちゃんだけが過ごせる場所に限定した方が、目的をスムーズに達成できます。
でもその場合、ママさん達と近所の子育ての終わったお節介おばさん達との情報交換などという、ママ達にはとっても有用な機能が抜けてしまいます。
お節介おばさん達は無料でバンバン子育ての極意を教えてくれる可能性があります。彼女達は子育てに自信があり、誰かに話したくて、人の役に立ちたい人達(であることが多い)のだから。

 

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2)利用者に利益をもたらすことができること

 

自己満足に陥っていないか、時々自分を突き放して観察できる人じゃないと、地域のため、社会のためと言いながら「自分たちが楽しければ良い、中心メンバー以外は手を出してはくれても口は出すな」とか「我々のコンセプトが全て正しいんだから興味のない人間は来るな」とかという方向に突き進んでしまうことが得てしてあります。

 

収益性と矛盾するような気がしてしまう人もいるかもしれませんが、利用者は納得できて人と繋がれる居心地の良い場所には、お茶代くらい喜んで払いますし、楽しそうなことをやっていれば参加しようかなってちょっとは思います。

 

一方、例えば私は汗かぶれを起こすのでベビーパウダー愛好家なのですが、ベビーパウダーなんて体に悪いものは絶対悪だから使ってるあなたはそれを知らない人、啓蒙しなくちゃと言い切る人もいます。

 

私はもしも気に入り始めたコミュニティカフェベビーパウダー撲滅を声高に訴え始めたらそこを利用しなくなるかもしれません。
でも、本来の目的である井戸端会議の場所という利用価値を残しておいてくれるのなら「あなたのそれには賛成しかねるけど邪魔もしないよ。それ以外のところで付き合おうよ」ってなると思います。

 

また「ママと赤ちゃんのための場所」では地域の人たちの溜まり場というには対象者が少なすぎます。
「ママと赤ちゃんを中心軸に据えるんだけど、近所のおじさんおばさんや赤ちゃんのお兄さんお姉さん世代、その他のフツーの街の人達がママと赤ちゃんを囲み、さらに各々勝手に交流して仲間になってるようなコミュニティカフェって素敵でしょ。
メニューも、離乳食があっても良いし、お年寄りのための美味しいとろみ食があっても良いし、中年が楽しめる味わい深いコーヒーなんてのもあったら嬉しいです。

 

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3)ある「うまくいってる」フツーの人が集まるフツーのコミュニティカフェ(フィクション)

 

居心地の良いところに居ついた人達は、色んなスキルを持ち合わせている可能性があるので、この方々の話を聞いてるだけで勝手にイベントの原型ができていくと思います。

 

だから、よほどコンセプトを強く打ち出したいのでなければ、祭りをやりたいなら利用者に祭りの計画から運営まで任せても良い気がします。

 

例えば、あるコミュニティカフェには、定年退職した元小学校の校長先生、ご主人に先立たれて肩を寄せ合うみたいに生きてる仲良し友達おばあちゃんズ、病気で仕事をドロップアウトして疲れ果てた目で好きなギターをぽろんと鳴らしている中年男性、お買い物帰りになんとなく足が向くと言って毎日遊びに来る専業主婦、お母さんにケーキを食べさせてもらうことを至上の喜びとしてやってくる専業主婦の息子(8歳)がいるとします。

 

このカフェでは、地域に引きこもりがちな赤ちゃんを抱えたママさん達に、地域交流の場に出てきてもらいたいと画策しています。
何ができると思います?

 

校長先生…赤ちゃんが少し大きくなった子供については、この人はエキスパートです。
また、イベントをやることには慣れていて、人を使うことも上手です。

 

仲良しおばあちゃんズ…子供を育てた経験があれば、ママ達のお母さん代わりに相談に乗ってあげられます。それに、ママ達にとって、世代の違う女友達ができる可能性があります。

 

病気のギター弾き…この人は社会からドロップアウトした無力感で辛い思いをしている可能性が高そうです。音楽の才も有りそうなので、子供達と音楽でコミュニケーションを取るなんてことができるかもしれません。子供は楽しませてくれる大人を好きになってくれますので、ギター弾きさんは子供から自尊心や愛される幸せをもらえるかもしれません。

 

専業主婦…この人は、赤ちゃんのママ達のちょっとだけ先輩の人です。

地域の教育情報や、ベビーカーでもが居られるお店、古着の交換サークルなどを知っているかもしれません。
それに、やはり世代が違う友達ができると、ママ達が「ママ」の役割を離れて「女子会メンバー」という自分軸の役割を持つことができる機会ともなります。

 

8歳男子…子供視点を持ってる人なので、ギター弾きさんと一緒に赤ちゃんにアンパンマンの歌を歌ってあげられるかもしれません。

また、彼が友達を連れてきて、ちょっとした遊び…レゴとか、お絵かきとか、チャンバラごっことか?女の子がくればお人形さんごっことか、髪におリボンをつけることとか?を教えるともなく教えてくれるでしょう。
そこに、ガキ大将集団的な、世代の違う子供の集いができます。
もしもその子達が小学校なり幼稚園なりでいじめられていた時、同じ学年の子供と遊べなくなっても、集団の大きなお兄さんお姉さんに救われることがあるかもしれません。
子供の世代間価値観にもバラけが出るので、誰かがたとえ孤立してしまっても、思いつめてしまう前になんらかのアイディアが誰かから湧いてくる期待ができます。

これは、赤ちゃん達の将来に対して、本物の宝物として機能するはずです。

 

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ここまで役者が揃っていて、みんながそのスキルを提供可能だとしたら(そうじゃ無い場合もよくあるけど)、コミュニティカフェのオーナーがやることは「お店のセッティング」と「飲食物の提供」、あとは例えばレンタルボックスでハンドメイド作家の作品を並べていたりするのならば作家に依頼してコンセプトに合った商品を作ってもらうとか、関わりの中でできる参加を促してみること、くらいかと思います。

 

市役所の人なんかがゲストで来てくれたら最高ですね。
例えば子育て支援機関の職員が「困ったら私のところへ来てください」と、自分たちが何をしている人だか知ってもらえる機会になります。
例えば福祉事務所の職員が様子を見ていて、福祉の手が必要なのに情報が無いために困っている人を見つけて話に乗るとか、利用者に有用な情報(で、役所もそのニーズを把握できることで地域運営に役立てられる)の交換ができるなんてオイシイ。

 

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こういうのがないのに、カフェ主導で地域にはチラシを巻く程度のことしかできないのにイベントを打っても、それはただの思想の啓蒙活動だったり、なんかイベントやりたいだけのカフェ運営側の楽しみなだけだったりするわけです。

 

コミュニティカフェを名乗るなら、自分は「井戸端会議の井戸」に徹するつもりで利用者に活躍の機会をあげて、利用者達の自己肯定感と活動の場の醸成、地域に知った顔がいる楽しさ、そして多様な価値観で出来上がる「逃げ道」や「可能性」をみんなが持てるようになること…そんなことができることに、期待をします。

 

その流れの中で
「あ、カフェのオーナーは自然食に造詣が深くて、出してくれるランチはみんな生産者のわかる食材使ってるんだってさ。面白そうなこと言ってるよ」
ってなれば、運営者がやりたかったことも自然と地域に浸透していかないかな、と思います。

 

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運営したこともないのに「何わかってないこと言ってんの」ってなったら申し訳ありません。
ただ、すごく有名なコミュニティカフェで少し働いた感想が、この考えを作りました。

長い文章にお付き合いいただいてありがとうございますm(_ _)m

pokemonGOに導かれる異界

ダークツーリズムとかなんとかじゃなくてもさ、普段気にも留めない小さな発見が街にあるだけでも、色々思うところはあるんだと思う。

 

もともとポケストップ(道具とかがもらえるポイントになっている場所)は、システムの前身ingressのプレイヤーが「人が集まる場所や文化施設など」ということで、プレイヤー側から運営に申請して設置させてできたものがほとんどだ。
一般の人が「これは、大事な(とか面白い、とか人が集まる、とか)施設だよね」って思ったもの。

 

これらのゲームは、街にひっそりと佇むお地蔵さんとか、入場禁止されているわけでもないのに入ったことがなかったお寺の素敵な鐘つき堂とか、地元の民のランドマークとして機能しているちょっとした彫刻とか、そんな「よく見ないとわからない」ものへ視線を誘導してくれる。

 

私も、ingressをやっていなかったら、神奈川宿があったあたりの明治時代各国の大使館として接収されたお寺とか見に行かなかったと思う。

 

何か色をつけるよりも、なんとなく導かれたところに自分なりの感想を見つけるのが、いいんだと思うんだけどなぁ。
それが結果としてダークツーリズムっぽくなるのはいいんだと思うし、歓迎していいと思うけど。

 

withne.ws

重たいお仕事の存在の軽さ

えっとですね。
激しく長いので結論から。

福祉の世界、特に公的な福祉施設などでは「安い労働者をこき使う」仕組みがまかり通っています。
なり手がいないので、志願すればわりと誰でもなれますが、向いていない人が「これしか雇ってもらえるところ無いし」と入ってくることもあります。

 

そして、その人達には勤まりません。
介護が必要な人に寄り添ったお仕事なんて、できるわけがないんです。
彼らの能力や向き不向きの問題もそうですし、彼らのモチベーションを保っていくだけの運営もされていません。

 

そりゃ犯罪も起きるわよね…。

 

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では、長いやついきます。

 

 

この施設は、神奈川県の「指定管理者」制度によって社会福祉法人かながわ共同会というところが運営しています。
本来は神奈川県の施設です。

 

「指定管理者」という制度、私は詳しくは横浜市のしか知らないので神奈川県が必ずしもそうかはわかりませんが、多分似たようなところです。

 

事業者(この場合神奈川県)が募り、プレゼンを受けて、安くて質の良さそうな運営団体を、点数をつけて選びます。

安さ=質の良さ、にはだいたいならないので、安さを出すためには運営団体は削れるところを削って、その身で質の良い運営を「無理やり」ひねり出します。
具体的には、人件費を削って、安い人員にいい仕事を求めます。
そうでないと「指定管理」の制度のもとにその施設を運営できないからです。

 

指定管理者制度」というのは比較的新しい制度で、その前はこういった公の施設は、自治体そのものか、もしくはそこから派生した財団法人や社会福祉法人(まぁアレです、天下り団体です)がやってました。

 

例えば大手企業などが、自分の経営の中で利益を上げていて、片手間に公の施設を運営しているのならば、働く人の賃金も多少はマシになるかもしれません。
でも、天下り団体はそんなわけにはいきません。他に収益を上げる事業やってませんし。そもそも儲けを考えない自治体などの公の施設ですし、お金の入る仕組みになってない施設です。

 

まぁ、905円のパートも、月収25万円の職員も(テキトーな金額ですが、多分この施設ではベテランの域の人の給料水準でしょう)、

 

同じ仕事を求められます。

 

繰り返します。
同じ仕事を求められます。

 

だって、パートって、すぐ切れるし、安いし、この人材を使わない手はないですもんね♪
最後にハンコ押すのは正社員だけど、パートだからって責任の軽い仕事とかさせてるわけないじゃない?
正社員少ないしさー。正社員だけで回したら回らないしさー。

 

残業?当然させるよね。でも、残業時間が多く上がってきたら知らんぷりして「経営的に良くないから無駄な残業はやめろ」って言うよねー。
そしたら現場はテキトーに残業時間間引いて申告するようになるからねー。

 

…って体質が、多分あると思います。

 

(正社員も地獄ですよこれ…大して貰ってないのに「ちゃんと給料もらって立場も安定した正社員だから」ということで、役職がついてるわけでもなんでもない若手とかでも「通常業務の他に」重たーい責任とパートさん達の管理などを負わなくてはならず、下手すると天下りの理事会とかに引っ張り出されて吊るし上げにされたりとかしたりしてね)←想像です、あくまでも想像です!

 

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26歳の見るからにダメヤンキー方面にダメそうな犯人ですが、写真見る限り全然介護向いてなさそうな彼がそこにいたということは、多分(めっちゃ推論ですが)仕事が長続きせずに「この仕事にしか就けないんだよな…」っていう気持ちでやってたものと思われます。

 

介護の世界は賃金やすくて忙しくて責任重いから、なり手がいないので、就職しやすい面はあると思います。
特に現場では、若い男子の手はめっちゃめちゃ借りたいと思うはずです。
彼が職員だったのか、パートだったのか、あるいはその中間の嘱託職員だったのかは知りませんが…。

 

私も、重度知的障害者授産施設でボランティアをやったことがあります。

そこで働く(というか、昼間過ごしていく)人達には、当然感情も言いたいこともあります。
でも、理性で感情をコントロールする力とか、自分の気持ちを外に出す表現力とかに障害があったりするので、うまく外に出せません。
「あなたのこと大好き!」という表現が、相手の腕にガブッと噛み付く、なんてことにもなります…。
やはりいい歳のおじさんおばさんなのに、シモの世話をしてもらわなければ生きていけません。ご飯は食べこぼします。よだれ垂らします。

しょうがないんです。彼らが不便なのは、彼らにコントロールできる話ではないし、彼らも望んでいなかったはず。

 

…でも、分かっていても、私には続きませんでした。
すんごい力で噛みつかれて、顔面蒼白・めまいと吐き気が襲ってきて(ショック症状を起こしたんですね)帰らざるを得なくなったんです…(^^;;

 

一方で「この仕事は天職!」と言いながらお仕事されてる人もいます。
差別意識とかそういうのではなく、向き不向きがあるんです。

 

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介護って、仕事が無い、社会経験も自信も無い若者が、ただ「ここなら雇ってくれるから」といって雇われて勤まるお仕事ではありません。
向き不向きと、不断の努力と、細かい気遣いによって成り立っているお仕事です。

 

なのに、安く買い叩いてこき使ってポイ、という現状。
何も報われずに期限付きとかで雇われたパート労働の若者が、キレて施設利用者を殺す事件は、川崎の介護老人保健施設(だったか有料老人ホームだったか。あれ正社員じゃないですよね?)でも起こりましたよね。

 

そういう構造があるかもしれない、という目で見ると、この事件の色合いが若干違うように見えてくるかもしれません。

 

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一応元気に暮らしているような私みたいなのでも、事故や病気で体や頭が動かなくなったら障害者です。老人になって不便が出れば要介護となります。
自分が「障害者」になったとき、どんな介護をされるのだろう…?ということを考えると、やっぱり現状は怖いと感じます。
向いていて、技術を身につけて、激務に追われる人達に対して、お金のある要介護者も無い要介護者も、きちんとした報酬が払える仕組み…それって我々も40歳から払わされている「介護保険※」じゃなかったんですか…?

 

※これは「高齢化に伴う障害や病気」に対して存在する保険制度なので、障害福祉になるとまた別なのですが。

 

☆特に障害を持たれている方に対して、不適切だったり、不快だったりする表現があれば、申し訳ありません。現場はこんな感じでした。

 

temita.jp

命を持つ当事者のための、命の授業

テレビで見た「命の授業」をやってる人に激しく怒りを覚える。
 

(いきさつ・テレビの内容)
この方は、娘さんが3歳でがんに侵され、闘病の末6歳で亡くしたそうだ。
それから「命を大切に」ということを伝えるためにNPOを設立して活動しているとのこと。

 

中学で生徒に向かって講演をしている時に「いじめで自殺、などということが報じられるけれども、自分は死んでもいい存在なんだと思うことは間違っている。死んだらお父さんお母さんがどう思うか考えて欲しい」と話していた。

 

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子供に死なれた親は確かに「命を大事にしてくれ、親より先に死んではいけない」と思うのはわかる。
彼は子供を小児がんで亡くしている。6歳だそうだ。悲惨だとは思う。


でも、

 

その子供が、小児がんのまま、辛い治療を続けながら、良くなるわけでもなくただ「死を免れるためだけ」に生かされてたら、子供の気持ちはどうなるんだ?

 

そして、苦しみの末に自殺を考える人に「自分は死んでもいいなんて間違い」と言い切る。
なぜならば「周囲が悲しむから」。

 

もう、ね。
個人の命は、周囲のためにあるものではないんだよ。
個人が死ぬ運命なのに周囲のために生きながらえるのは、その個人の幸せか?
生かしておくなら「治して」やってよ。

 

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自殺を考える人のほとんどは、うつ状態を経て自殺に至る。

 

ひどいストレスを受けると人はうつ状態になる。
ストレスにはいろんなものがあるが、古く原始時代やもっと昔のお猿さん時代、脳の働きが作られていく段階において、「獲物が捕れなくて飢えている」「怪我をしている」などのストレスで「動かないほうがいい」状況の時に、無駄に動かないためにそういう風に脳が動いたんじゃないかな、と思う。
それがさらにひどくなれば、群れで行動するのに支障をきたす。そこで「自分は役に立たないんだ、みんなと一緒にいてはいけないんだ」と脳汁が働くようにできてるんじゃないか、だから人は「自分なんかいなくなったほうがいい」と

 

自然に考えるようにできている

 

のではないか、と思う。
うつ状態、さらにはうつ病鬱状態が高じるとなる)になると人は「死にたくなる」ものなのだ。

 

治せないのならばその人のクオリティ・オブ・ライフを考えるべきであって、「親を泣かせるな」などという脅迫をもって縛るものではないと思う。

 

気軽に「自殺なんかよくない」と言うのは私は大反対だ。
「私は、あなたが死んだら悲しい」はOKだけど、「死にたいと思うあなたは間違っている」は大いに間違っていると思う。

 

当事者目線でないからそういうことが言えるんだと思う。
6歳で亡くなった娘さんには多分「抗がん剤辛いよ」とか「治る見込みがないのに、もう手術ばかりなのは嫌だよ」とは言えなかった(し、考えられるほど育ってもいなかったし、親が全てだったんで期待に応えようとしていた)と思う。

 

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親より先に死ぬな、などと言うけれども、親にだって死なれたくはないものだ。

 

ウチの父は、治しようがなく進行が早い難病で他界した。ALSという病気だ。脳と筋肉をつなぐ神経細胞がなぜか侵されていき、体が動かなくなる。やがて筋肉が衰えていく。
呼吸機能に障害が出るために、放っておけば死んでしまうが、人工呼吸器をつければ生き長らえる。ただし、呼吸はできても他の部位は動かなくなっていくので、一番困るのは「脳は動いているのに意思を外に出せない」という怖い状態になることだ。
運動系の神経細胞は死ぬが、脳とか、臓器を動かす自律神経などはこの病気では侵されない。

 

父は病気発覚後すぐに「人工呼吸器をつけないで早く死んでしまうか、人工呼吸器をつけて生き長らえるか。ただし後者だと精神的に辛い日々が待っているかもしれない」という選択を強いられた。

 

結果父は前者を選択し、選択とほぼ同時に呼吸器が急速に衰え他界したが、その選択は家族全員が納得した、と思う。
無理な延命で苦しむのなら、自然に死にたい。
家族も無理はさせたくなかった。

 

「家族のために死なないで!」というのならば、父に「彼が不快にならないと約束できる介護」と「彼が孤独にならないようなしっかりした意思疎通の方法」を確保しなければならない。それは、現代医学では総力を尽くしてもとてもおぼつかない。
そもそもは「治す」が約束できなくては無理を強いることは(父自身ではないという意味での)他人にはできないと思う。

 

なぜ、自分のために生きるのが不可能な状況で、他人のために生きなくてはならないのか。

 

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小児がんの子供が、がんは治らないしずっと手術と抗がん剤で生き長らえていたとして、その子が学校にも行けず、友達もできず、苦痛と闘うだけの日々で治る見込みはない…という状況なら、無理をさせる意味はあるのだろうか?

 

抑うつ状態で事態の改善も見込めずうつ病に移行して、何年も何十年も薬を飲んで動けなくて生活保護を受けてなんとか生活しているおじさんとかが「自分は生きている意味がない、死にたい」と言ったら、それは否定されるものなのだろうか?

 

当事者目線で語れない「命の授業」なんて、害悪でしかない。
もしも冒頭の人が講義を行う中学の生徒の中に、いじめられていじめられて自尊心をとことん叩き潰されて、でも学校からも逃げられなくて死にたいと思っていたとして…その死にたいという「自分の意思」まで潰されたら生徒は自分で考えることすら否定されることになる。

 

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当事者目線に立てば「自殺しないで済む方法」を探ることになると思うのだが「自殺しようと思うことは間違っています(キリッ)」ってのはもう自己満でしかないと思うのだ。

 

ただ、うつ病に「死にたい」と思わされている人に

 

「それはあなたの意思ではない。病気がそう思わせているんだ、あなたの意思で死ねるようになるまでは自殺は延期して、治らないかもう一度あがいてみようよ。もし治るのなら、死ぬのはもったいないよ」

 

と伝えてあげられるのであれば、「(少なくとも感情の爆発に任せて)死ぬのはよくない」と言うことはできる。
楽になるのならば、誰も自分から死んでしまいたいとは考えない(強い信念があるとかの場合を除いて)。

 

(参考記事)
https://welq.jp/547
(「重荷や空虚を手放しましょう!」の記事まで。それ以降は後付けのようなので通り一遍の話しか書いていませんので、興味がある人以外はそこまで読めば十分です)

 

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はー、腹が立ったので書きなぐってしまった。
でも、間違いは言っていないと思う。後悔も反省もしていない。
テレビに向かって猛烈に悪態をつきたくなるくらいには腹が立った。あの人と会うことがあったら、私は元重症うつ病バイバー、ALS患者の娘として闘うのだと思う。

 

なんで自分のためじゃなく他人のために、しかも根性ではどうにもならないことについて「頑張れ」だの「家族や友達が悲しむから死ぬな」だの言われなきゃならんのだ。

 

大事な人が死んでしまったとして、残された人間はその人の選択を(本当に間違っている場合を除いて)尊重しつつ、「今生きている私はどうしたらいいか」を考えること…自分本位、「自分」がどう考え生きるのか、立て直していくのかが大事なのではないだろうか。